日本棋院

日本棋院の周辺を取り上げます。

写真01_帯坂
写真01_帯坂
「この坂を帯坂(おびざか)といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本、青山播磨の腰元お菊が髪を振り乱し帯を引きずって逃げたという伝説によります。」(案内文より)
この坂の途中に日本棋院があり、囲碁ファンが多く通ります。土曜は子供の囲碁教室があるらしく、子供たちが親に手を引かれて通うのが見られます。
時々、プロ棋士も通りますが、井山裕太本因坊が通りかかったときは、子供たちが「井山先生!」と声をかけ、本因坊はニコニコと微笑んで応え、大変な人気です。

写真02_日本棋院
写真02_日本棋院
小さな男の子が親に手を引いてもらって来ましたが、入口で親は帰ってしまい、心細そうに一人で中に入って行きました。がんばれ男の子。

写真03_囲碁殿堂資料館
写真03_囲碁殿堂資料館
日本棋院の地下には囲碁殿堂資料館があり、囲碁の歴史が分かる資料が展示されています。

写真04_徳川家康
写真04_徳川家康
戦国武将が囲碁を嗜んだことは広く知られています。

写真05_家康紹介
写真05_家康紹介
家康は、「碁会を多数催すなど碁打ち衆を保護し、本因坊算砂を見出す。後の「御城碁」、「家元制度」の基礎を築いた。」

写真06_本因坊算砂
写真06_本因坊算砂
本能寺の変の前夜、信長の御前で日海(算砂)と利賢の囲碁対局が行われ、極めて稀な「三劫(さんこう):永遠に勝負がつかない状態」が起こりこれが本能寺の変の前兆であったという言い伝えがあります。 算砂は秀吉や家康にも仕え、初代の本因坊となりました。

写真07_算砂紹介
写真07_算砂紹介
「幕府から算砂ら碁打ちに俸禄が支給されたことなどから、囲碁家元制度の礎を築いた。」

写真08_本因坊秀哉
写真08_本因坊秀哉
「家元制最後の本因坊です。二十一世 秀哉が日本棋院に名跡を譲りました。」現在、本因坊戦は、最強のプロ棋士がタイトルを争います。

写真09_秀哉紹介
写真09_秀哉紹介
「木谷実との引退碁(第21世本因坊秀哉名人−木谷實)は、川端康成の小説「名人」のモデルとなりました。」

写真10_小説「名人」(川端康成・新潮文庫)
写真10_小説「名人」(川端康成・新潮文庫)
「川端康成は、本因坊秀哉名人の引退後を観戦し、新聞に観戦記を連載した(昭和13年)。この引退碁で不敗の名人が敗れたが、これは名人に代表される「いにしえ」の世界の崩壊であった。康成は、この時受けた感動をこの小説に書いた(昭和26〜29年)。」(解説より)

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